スキップしてメイン コンテンツに移動

37 After World War II 血のメーデー事件(ちのメーデーじけん)Blood May Day Incident

血のメーデー事件(ちのメーデーじけん)
1952年昭和27年)5月1日(木曜日)に東京皇居外苑で発生した、デモ隊警察部隊とが衝突した騒乱事件である。事件は一部の左翼団体暴力革命準備の実践の一環として行ったものと見られている[1]。戦後の学生運動で初の死者を出した。
GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた[2]
警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人(駐留米国軍人)の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ[2][1][3]
乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した[2]
しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった[2]
これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名[4]、重軽傷者約200名[1](主催者発表では死者2名、重軽傷者638名[2])、警察側は負傷者832名(うち重傷者71名)を出す流血の惨事となった[2]。当日は警察予備隊(現在の自衛隊)の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった[5]。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊(後の自衛隊)のことではない。

コメント

このブログの人気の投稿

11 After World War II 阪神教育事件(はんしんきょういくじけん)The Hanshin Education Incident

阪神教育事件 (はんしんきょういくじけん) The Hanshin Education Incident GHQの指令を受けた日本政府が「朝鮮人学校閉鎖令」を発令した。 The Japanese government, which has received the GHQ directive, has issued a "Korean School Closure Order". 日本全国の朝鮮人学校を閉鎖しようとした事に対して、1948年(昭和23年)4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した 在日韓国・朝鮮人と日本共産党による暴動 あるいはテロ事件。 In response to trying to close Korean schools all over Japan, Koreans in Japan and the Japanese Communist Party occurred a riot or terrorism in Osaka and Hyogo prefectures from April 14 to April 26 in 1948.   民族教育闘争という見方もある。 There is also a view of ethnic education struggle. 日本国憲法下で唯一の非常事態宣言が布告された。 Only one declaration of a state of emergency was declared under the Constitution of Japan. 朝鮮人学校事件、大阪での事件は大阪朝鮮人騒擾事件、また神戸での騒乱事件は神戸朝鮮人学校事件とも呼ばれる The Korean school case and the Osaka case are also referred to as the Osaka Korean affair case, and the Kobe case for a disturbance case is also called a Kobe Korean school case. この事件の呼称は以下のように様々なものがある。 There are various designations of this case a...

table of contents

After the Great Kanto earthquake    Oani village Incident Ikuta Police station Attack Incident Naoetsu Station Lynch murder Incident Tomisaka police station raid Incident Nagasaki police station raid Incident In front of the Toyama station police box attack Incident Sakamachi Incident Niigata Nippo company raid Incident Prime Minister's Office Demonstration Incident Obanazawa faction raid attack Incident The Hanshin Education Incident Hyojogawara Incident Ube Incident Masuda Incident Edagawa Incident Takada Dubrok Incident Hongou Incident Shimonoseki incident Taitou Hall Incident Turajima Town Incident Nagata Ward office attack Incident Yokkaichi Incident Ouji Korean School Incident Kanagawa Incident Hino Incident Shimozato village office group threat Incident Fukuoka Incident Higashinari police station tear gas throwing Incident Handa Ichinomiya Incident Attack on a munitions manufacturing plant Incident Kizukurichiku police station attack...

5 After World War II 長崎警察署襲撃事件(ながさきけいさつしょしゅうげきじけん)Nagasaki police station raid case

長崎警察署襲撃事件(ながさきけいさつしょしゅうげきじけん) 1946年 (昭和21年) 5月13日 に 長崎県長崎市 で発生した、 在日朝鮮人 ・中国人による 警察署 襲撃事件。 Police raid case by Koreans and Chinese in Japan that occurred in Nagasaki City, Nagasaki Prefecture on May 13, 1946. 長崎市西浜町の長崎自由市場では、 物価統制令 違反のヤミ物資が公然と販売された。 In the Nagasaki Free Market in Nishihama-Cho, Nagasaki City, there was a black-market good that violates the Price Control Ordinance. それに並行して暴力行為も頻発していた。 At the same time, violent acts were also frequent. 長崎県警察部 では、これら不法事案の断固取締を決断し、検挙の準備を進めていた。 The Nagasaki Prefectural Police Department has decided to control these incidents and has been preparing for an arrest. 1946年5月13日午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始した。 At 10:30 am on May 13, 1946, 280 police forces began to control all at once. 日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、 長崎警察署 に連行した。 They arrested 150 Japanese, 26 Korean and 6 Chinese, and took them to the Nagasaki Police Station. その直後、 在日本朝鮮人連盟 や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。 Soon after, the Korean Federation of Japanes...