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44 After World War II 万来町事件(ばんらいちょうじけん)Banrai Town Incident

万来町事件(ばんらいちょうじけん) 1952年 6月5日 に 山口県 宇部市 で発生した 暴動 事件。 A riot case that occurred in Ube City, Yamaguchi Prefecture on June 5, 1952. 当時、 宇部市 には約3100人の 在日韓国・朝鮮人 が居住した。 At that time, In Ube City, There were about 3,100 Koreans. 大半が 生活保護 受給者だった。 Almost they lived on welfare. 市当局は、彼らが「日中仕事をしない」ことから、「潜在収入がある」と判断しました。 City authorities have determined that they have "potential income" because they "They don't work during the day". 市当局は、生活保護費の増額を見送っていた。 The city authorities left the increase in welfare-payment over. 朝鮮人側はこれに激昂した。 1952年5月31日以降、連日、宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。 6月3日になると約400人に達した。 宇部市警察 は全職員を動員して対処した。 朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部 派出所 を襲撃した。 事件の概要 6月5日、宇部市万来町(現在の新町9丁目)において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に 宇部興産 の工場に乱入、 守衛 を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて 民団 の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。 警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は 投石 などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは 催涙ガス弾 も導入してようやく鎮圧した。

43 After World War II 奈良警察官宅襲撃事件(ならけいさつかんたくしゅうげきじけん)Nara police officer raid Incident

奈良警察官宅襲撃事件(ならけいさつかんたくしゅうげきじけん) 1952年 ( 昭和 27年) 5月31日 に、 奈良県 磯城郡 桜井町(現 桜井市 )で発生した 在日朝鮮人 による襲撃事件。 On May 31, 1952 (Showa 27), an attack by Koreans in Japan that occurred in Sakurai-cho, Isogi-gun, Nara Prefecture (now Sakurai City). 1952年 ( 昭和 27年)5月25日、桜井町で 民団 磯城支部書記長が、 旧朝連 系の 在日朝鮮人 に襲われる 桜井町事件 が発生した。 On May 25, 1952 (Showa 27), in Sakuraicho, there was a Sakuraicho incident in which the general secretary of the Mindan Isogi branch office (South Koreans) was attacked by former Cyouren Noth Koreans in Japan. 国家地方警察奈良県本部 は犯人を検挙し、 奈良地検 に 送致 した。 5月30日、 奈良市警察 に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が 奈良市 に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。 このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。 事件の概要[ 編集 ] 5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え 意識不明 の 重体 にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した。

42 After World War II 広島地裁被疑者奪回事件(ひろしまちさいひぎしゃだっかいじけん)Hiroshima District Court suspect recapture Incident

広島地裁被疑者奪回事件(ひろしまちさいひぎしゃだっかいじけん) 1952年 5月13日 に、 広島市 で発生した事件。 The incident occurred in Hiroshima City on May 13, 1952. 1952年5月13日午後2時55分から 広島地方裁判所 第二号法廷で 勾留理由開示 を開くことになっていた。 It was supposed to open the reason for detention at the 2nd court of the Hiroshima District Court at 2:55 pm on May 13, 1952. 対象となった 被疑者 は、 4月30日 と 5月1日 に、 国警広島県本部 安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ 火炎瓶 を投げつけて放火した容疑で逮捕された 朝鮮人 4人であった。 The accused suspects were arrested on April 30 and May 1 as the Koreans arrested on April 30 for throwing Molotov cocktails at the Asa district,   Furuichi-cho police station and private house. 勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、 赤旗 や 北朝鮮旗 が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。 閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。 広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために 広島市警察 の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった。

41 After World War II 高田事件(たかだじけん)Takada Incident

高田事件(たかだじけん) 1952年 5月25日 から 5月26日 にかけて、 愛知県 名古屋市 瑞穂区 で発生した公安事件。 A public safety incident occurred in Mizuho Ward, Nagoya City, Aichi Prefecture, from May 25 to May 26, 1952. 瑞穂警察署 管内の高田 派出所 を襲撃した事件と、その直前に起きた同時多発事件の総称である。 It is a generic term for the incident that attacked Takada faction in Mizuho Police Station jurisdiction and the simultaneous and frequent incident that occurred just before that. 裁判 において、 日本国憲法第37条 1項に定める 迅速な裁判 を受ける 権利 が問題となった。 1952年頃から、 民団 愛知県本部の顧問は、 北朝鮮 系の 在日朝鮮人 の 脅迫 を受け続けてきた。 From around 1952, advisors to the headquarters of Aichi Prefecture, the Japanese people's group, have been threatened by North Korean Koreans in Japan. 同年 3月 には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。 The house was attacked in March of the same year, and a leaflet for the killing was posted. 事件の概要[ 編集 ] 1952年5月26日午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。 顧問は何とか逃げ出し、 名古屋市警察 瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり 火炎瓶 を投入したりして焼き討ちした。顧問は 警察官 の誘導で裏口から退避し、道

40 After World War II 大村収容所事件(おおむらしゅうようじょじけん)the Omura Detention House Incident

大村収容所事件(おおむらしゅうようじょじけん) 朝鮮戦争による朝鮮人密航者や、在日朝鮮人で犯罪を犯した者を送還するために収容する 法務省 入国管理庁の 長崎県 大村市 にある 入国者収容所 (現: 大村入国管理センター )で、 1952年 (昭和27年)11月に発生した事件。 1952年 5月12日 、法務省は朝鮮人410人を 韓国 の 釜山 に強制送還した。 On May 12, 1952, the Ministry of Justice deported 410 Koreans to Busan, South Korea. 韓国政府は125人については引き取りを拒否した。 The Korean government refused to take out 125 people. 日本に送り返した。 The Korean government sent them back to Japan. これらの逆送還者は大村収容所に収容された。 逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに 民戦 が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。 事件の概要[ 編集 ] 1952年 11月11日 午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や 大村市警察 の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した。 裁判[ 編集 ] 長崎地方裁判所 は 1953年 7月20日 、被告15人中6人を無罪、残りの9人にそれぞれ懲役1年 - 5か月の有罪判決を言い渡した。 その他[ 編集 ] 『大村収容所二十年史』(法務省大村入国者収容所,1970)によれば、1950年12月から1970年9月末までに大村収容所で起きた事件は、騒擾事件34件、ハンスト22件、逃走事件35件70名、暴行事件49件、その他、脱棟、放火未遂、退去強制令書破棄、自損行為27件(自殺既遂4件、同未遂16件、自損7件)、嬰児遺棄、告訴等42件となっている。

39 After World War II 上郡事件(かみこおりぐんじけん)Kamikoori County Case

上郡事件 1952年5月8日 4月10日に左翼系朝鮮人5名は、兵庫県赤穂郡船坂村で、別の朝鮮人3名に対して日本の学校に入学させていたことを理由に「スパイ」と難癖を付け、巻き割りで殴打した。 On April 10, five left-wing Koreans beat against three other Koreans with an ax in Funasaka-mura, Ako-gun, Hyogo Prefecture. Because the fact that the three entered the school in Japan was a "spy" and picked a fight with them. その事件の容疑で5月8日に国警赤穂地区警察署は、朝鮮人8名を検挙した。 その後、容疑者は神戸地検姫路支所に護送された。 その間朝鮮人の一団が赤穂地区警察署に押しかけた。 容疑者の奪還を図ろうと南へ約50m離れた小谷薬局前で警察と乱闘になった。 容疑者の身柄は無事護送された。

38 After World War II 岡山事件(おかやまじけん)Okayama Incident

岡山事件 1952年4月24日~5月30日 阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン(催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。 5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。 11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。

37 After World War II 血のメーデー事件(ちのメーデーじけん)Blood May Day Incident

血のメーデー事件(ちのメーデーじけん) 1952年 ( 昭和 27年) 5月1日 (木曜日)に 東京 の 皇居外苑 で発生した、 デモ隊 と 警察部隊 とが衝突した 騒乱 事件である。事件は一部の 左翼団体 が 暴力革命 準備の実践の一環として行ったものと見られている [1] 。戦後の学生運動で初の死者を出した。 GHQ による 占領 が解除されて3日後の 1952年 (昭和27年)5月1日、第23回 メーデー となったこの日の中央メーデーは、 警察予備隊 についての「 再軍備 反対」とともに、「人民広場(注: 皇居前広場 )の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、 全学連 を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、 日比谷公園 で解散したデモ隊の一部は、その中の 全学連 と 左翼 系青年団体員に先導され、 朝鮮人 、 日雇い 労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた [2] 。 警視庁 は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して 雑踏警備 にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず 丸の内警察署 長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人( 駐留米国軍 人)の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の 催涙弾 を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先

36 Afer World War II 田川事件(1952年4月19日)Tagawa Incident

田川事件(1952年4月19日) 1952年4月13日 福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グループと朝鮮人グループが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。国家地方警察田川地区警察署は両グループを検挙した。 ところが19日になって、朝鮮人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。警察は3名のアリバイを認め釈放したが、朝鮮人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向かって投石をし始め、ガラス戸27枚が破損、警察官7名が負傷した。 21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。

35 After World War II 多奈川町事件(たながわちょうじけん)Tanagawa Town Incident

多奈川町事件(たながわちょうじけん) 1952年 (昭和27年)3月に、 大阪府 泉南郡 多奈川町 (現 岬町 )で発生した事件。 以前より 多奈川町 警察は、隣接の 国家地方警察 泉南地区署の応援を得、幾度も 朝鮮人 による 密造酒 の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった。 1952年 3月24日 、 大阪国税局 は、同局泉佐野税務署・ 大阪地方検察庁 岸和田支部・ 国家地方警察 泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。 同年 3月26日 午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、 多奈川町 9ヶ所、 深日町 1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。 納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によって ドブロク ・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次 南海電気鉄道 多奈川線 多奈川駅 前に集合。 この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。 不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。 午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗

34 After World War II 宇治事件(1952年3月13日)Uji Incident

宇治事件 1952年3月13日 午前1時頃、宇治市警小倉派出所・伊勢田臨時派出所及び警察官宅3ヶ所に、それぞれ5名の朝鮮人が押し入り、 表戸などの器物を破壊し、「殺すぞ」の暴言を吐いて逃走した。 そのため、宇治市警は国警京都府本部の応援を得て426名の特別検挙隊を編成し、宇治市ウトロ地区(朝鮮人集落)を捜索、小競り合いなどがあったが、6名を検挙した。 また伏見税務署も密造酒の捜索を行い、密造酒2升を押収した。

33 After World War II 八坂神社事件 Yasaka Shrine Incident

八坂神社事件 1952年3月1日 三・一事件記念の名目で集まった約70名の朝鮮人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、朝鮮人側に十数名の負傷者を出して解散した。一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は近くの朝鮮人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行、解散させた。この事件で6名が検挙された。

32 After World War II 姫路事件 Himeji Incident

姫路事件 1952年2月28日 兵庫県姫路市において、民団広畑分団長ほか3名の民団員宅に旧朝連系約20名が覆面して押しかけ、器物を破壊して逃走した。また同時刻に姫路市内の交番4ヶ所に5~30名の朝鮮人が押しかけて、警察官を軟禁し、多数の威力を示して脅迫した事件である。捜査の結果21名を検挙し、竹槍等の凶器を押収した。

31 After World War II 木造地区警察署襲撃事件(きづくりちくけいさつしょしゅうげきじけん)Kizukurichiku police station attack Incident

木造地区警察署襲撃事件 (きづくりちくけいさつしょしゅうげきじけん) Kizukurichiku police station attack Incident 1952年(昭和27年)2月21日から2月23日にかけて、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)で発生した在日朝鮮人による事件。 An incident involving Koreans living in Japan occurred between February 21 and February 23, 1952, in the town of Wooden Town (now Tsugaru City), Nishitsugaru District, and Aomori Prefecture. 当時、在日朝鮮人は祖国防衛隊を組織し、 所感派 が主導権を握る 日本共産党の指令の下全国各地で暴動を起こしていた 。 At the time, Koreans living in Japan organized the Fatherland Defense Force and rioted all over the country under the command of the Japanese Communist Party, which was led by the Shokan sect. 1952年2月21日、国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。 On February 21, 1952, the Wooden District Police Station of the Aomori Prefectural Headquarters of the National Regional Police arrested two Koreans living in Japan on suspicion of assault. これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。 In response, dozens of Koreans in Japan rushed to the station every day, demanding the immediate release of the arrestees. 2月23日に入り、

30 After Worald War II 軍需品製造工場襲撃事件 Attack on a munitions manufacturing plant Incident

軍需品製造工場襲撃事件 1951年12月16日 東成警察署催涙ガス投擲事件で死亡した朝鮮人の追悼式に参加した朝鮮人約110名は、3班に分かれて、大阪市内四ヶ所の親子爆弾製造工場(民団系)を襲撃し、製品や窓ガラスを破壊したり、従業員に暴行を加えたりした。

29 After World War II 半田一宮事件 Handa Ichinomiya Incident

半田一宮事件 1951年12月3日 愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下数名を監禁した。一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査の妨害をした。 そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。 12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊した。他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。

28 After World War II 東成警察署催涙ガス投擲事件 Higashinaru police station tear gas throwing case

東成警察署催涙ガス投擲事件 1951年11月10日 泥酔中の朝鮮人を警察が保護したが、容態が急変して同日夜に死亡した。乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。 ところが、朝鮮人側は警察官の暴行により死亡したとデマを流し、約30名の朝鮮人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。

27 After World War II 福岡事件 Fukuoka incident

福岡事件 1951年11月21日  「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙された。その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。

26 After World War II 下里村役場集団恐喝事件(しもざとむらやくばしゅうだんきょうかつじけん)Shimozato village office group threat Incident

下里村役場集団恐喝事件 (しもざとむらやくばしゅうだんきょうかつじけん) 下里村役場集団恐喝事件 (しもざとむらやくばしゅうだんきょうかつじけん)とは、昭和26年( 1951年 ) 10月22日 に、 兵庫県 加西郡 下里村 (現在の 加西市 )で発生した事件。 事件の概要 この日、下里村において、 在日朝鮮人 約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた。 そして職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴挙に出たため、 国家地方警察兵庫県本部 は暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した [1] [2] 。

25 After World War II 日野事件(ひのじけん)Hino Incident

日野事件 (ひのじけん) 日野事件 (ひのじけん)は、 1951年 ( 昭和 26年) 10月18日 に、 滋賀県 蒲生郡 日野町 で発生した公安事件。 1951年10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡 桜川村 に、 在日朝鮮統一民主戦線 や 祖国防衛隊 のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県 公安条例 の届出を出していない違法デモであった。 国家地方警察滋賀県本部 蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。 デモ隊は 日野郵便局 前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。 The protesters made speeches on the front of the Hino Post Office, such as "opposition against repatriation of Koreans" and "opposition to military bases." その間、周辺在住の 朝鮮人 が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。 そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、 公務執行妨害罪 で20人が検挙された。

24 After World War II 神奈川事件 Kanagawa Incident

神奈川事件 神奈川事件 は、 1951年 6月13日 に28名の 在日朝鮮人 が、 公安条例 違反容疑で検挙された事件である。 横浜市 神奈川区 にある 青木小学校 分校において、神奈川県 朝鮮人学校 PTA 連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた 警察官 に対して暴力をふるったため、 公務執行妨害 で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。 運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が 横浜市警察 本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。  そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した。

23 After World War II 王子朝鮮人学校事件(おうじちょうせんじんがっこうじけん)Ouji Korean School Case

王子朝鮮人学校事件 (おうじちょうせんじんがっこうじけん) 王子朝鮮人学校事件 (おうじちょうせんじんがっこうじけん)とは、 1951年 ( 昭和 26年) 3月7日 に 東京都 北区 で発生した事件である。 事件の発端 1951年 2月23日 、 蒲田警察署 は 占領目的阻害行為処罰令 違反容疑で、 東京都立朝鮮人中高等学校 (今の 東京朝鮮中高級学校 )の生徒1人を検挙した。 捜査の結果、当時の GHQ が禁止していた「 新朝鮮 」「 前進 」「 朝鮮女性 」等のいわゆる反占領軍的な印刷物を作成していたことが判明し、 2月28日 に同校を家宅捜査し、証拠物件を押収した。 しかし、翌日 3月1日 は 三・一独立運動 記念日であったため、朝鮮人たちは「不当弾圧」と激昂し、所轄の 王子警察署 に300人、隣の 板橋警察署 に400人、 赤羽警察署 に40人が押しかけて抗議した。 そして3月7日に「真相発表大会」と称する集会を学校内で開催、抗議デモを行うことになった。 事件の概要 1951年3月7日当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。 集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。 しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。 応援に来ていた 蔵前警察署 員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、 拳銃 や 警棒 などが奪われた。 警視庁 は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。 群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。 警察はこの事件で28人が重軽傷を負った。

22 After World War II 四日市事件(よっかいちじけん)Yokkaichi Incident

四日市事件 (よっかいちじけん) 四日市事件 (よっかいちじけん)は、 三重県 四日市市 で戦後発生した 在日朝鮮人 による 暴動 。 概要 1951年 (昭和26年) 1月23日 、旧 朝連 四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた 朝鮮人 約20名が、 器物 や ガラス の破片を投げつけたり、 灰 ・ 唐辛子 による目潰し攻撃をしたり、濃 硫酸 を浴びせて接収の妨害を行った 事件 。 そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。 警察 が出動して、 公務執行妨害 容疑で15名を 検挙 した。

21 After World War II 長田区役所襲撃事件(ながたくやくしょしゅうげきじけん)Nagata Ward office attack

長田区役所襲撃事件 (ながたくやくしょしゅうげきじけん) 長田区役所襲撃事件 (ながたくやくしょしゅうげきじけん)とは、 1950年 (昭和25年) 11月20日 から 11月27日 にかけて、 兵庫県 神戸市 長田区 で発生した 在日朝鮮人 による公安事件。 第一神戸事件 ( 阪神教育事件 )に続く、神戸で起きた第二の騒乱事件という意味から 第二神戸事件 ともいう。 事件の発端 1949年 から始まった ドッジ・ライン により、 デフレーション が進行し失業や倒産が相次いだ。 在日朝鮮人 も例外でなく、失業者が激増した。こうした状況の下で、朝鮮人は「 朝鮮人生活擁護闘争 」を展開、 地方税 の減免や 生活保護 の適用を求めるために、各地の役所に押しかけるようになった。 事件の概要 1950年11月20日午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。 要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。 しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。 神戸市警察 は直ちに出動、30人が逮捕された。 11月24日 午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。 区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、 不退去罪 の現行犯として26人が逮捕された。 11月27日 朝、長田区にある 西神戸朝鮮人学校 に千数百人の朝鮮人が集結、神戸市警察は全警察官を総動員して対処した。 朝鮮人は投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等 人民裁判 にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。 遂に警察は 神戸市電 湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。 その残党は 新湊川 沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された。

20 After World War II 連島町事件(つらじまちょうじけん)Turajima Town Case

連島町事件 (つらじまちょうじけん) 連島町事件 (つらじまちょうじけん)とは、 1950年 8月15日 に日本で発生した事件である。 1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)に対し 団体等規正令 を適用して解散命令を下す。 また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。 これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。 将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。 こうした世情不安の中、 岡山県 浅口郡 連島町 (現在の岡山県 倉敷市 )で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の 朝鮮人 が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。 この事件で警察官15名が負傷した。

19 After World War II 台東会館事件(たいとうかいかんじけん)Taitou Hall Incident

台東会館事件 (たいとうかいかんじけん) 台東会館事件 (たいとうかいかんじけん)とは、 1950年 (昭和25年) 3月10日 ・ 3月20日 に、 東京都 台東区 で発生した公安事件。 事件の発端 在日本朝鮮人連盟 は、結成以来 日本共産党 の尖兵として日本各地で 暴動 を起こし続けてきた が、 1949年 9月8日 、 団体等規正令 の「 暴力主義的団体 」として解散を命じられ、その 資産 は没収されることになった。 東京都 では、朝連台東支部があった「 台東会館 」を接収することになったが、旧朝連関係者は「台東会館は朝連の 財産 ではない」と異議申し立てを行ったため、東京都が 法務府 に問い合わせたところ、法務府当局は「台東会館は朝連の財産である」と裁定を下した。 法務府の判断を受け、東京都は朝連に対し台東会館を明け渡すよう通告したが、一向にその気配がなかったため、 1950年 3月10日 に接収を行うことになった。 事件の概要 1950年3月10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。 警視庁 では不測の事態に備えて多数の 警察官 を警戒に当たらせた。 係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。 そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。 旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口に バリケード を設け、周辺 道路 を巡回して警戒していた。 3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。 そのため 警察 は強行突入を断行し、朝鮮人119人を 検挙 した。

18 After World War II 下関事件(しものせきじけん)Shimonoseki incident

下関事件 (しものせきじけん) 下関事件 (しものせきじけん)とは、 1949年 (昭和24年)8月に 山口県 下関市 で発生した騒乱事件。 事件の発端 大韓民国 政府は1949年より、韓国外に居住する同胞を対象にした「 在外国民登録 」を開始した。 民団 は、「この登録を怠る者は朝鮮人としての資格を喪失する。無国籍人になることを望む以外の者は登録せよ。」と宣伝したため、 朝連 側が憤慨し、小規模な衝突が続いていた。 8月15日には大規模な衝突が 小野田市 で発生し、それを発端として下関事件へと発展することになる。 [1] 事件の概要 1949年 8月19日 午後11時頃、朝連事務所前に約150人の 在日朝鮮人 が集結し、民団を非難する集会を開いた。 集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。 朝連は、これに報復すべく 8月20日 午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。 そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。 下関市警察 は、直ちに 国家地方警察山口県本部 に応援を要請した。 国家地方警察は、 自治体警察 を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、 警察学校 の学生をも動員した。 県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。 翌日 8月21日 には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。 最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された。 [1]