スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(暴動)が付いた投稿を表示しています

44 After World War II 万来町事件(ばんらいちょうじけん)Banrai Town Incident

万来町事件(ばんらいちょうじけん) 1952年 6月5日 に 山口県 宇部市 で発生した 暴動 事件。 A riot case that occurred in Ube City, Yamaguchi Prefecture on June 5, 1952. 当時、 宇部市 には約3100人の 在日韓国・朝鮮人 が居住した。 At that time, In Ube City, There were about 3,100 Koreans. 大半が 生活保護 受給者だった。 Almost they lived on welfare. 市当局は、彼らが「日中仕事をしない」ことから、「潜在収入がある」と判断しました。 City authorities have determined that they have "potential income" because they "They don't work during the day". 市当局は、生活保護費の増額を見送っていた。 The city authorities left the increase in welfare-payment over. 朝鮮人側はこれに激昂した。 1952年5月31日以降、連日、宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。 6月3日になると約400人に達した。 宇部市警察 は全職員を動員して対処した。 朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部 派出所 を襲撃した。 事件の概要 6月5日、宇部市万来町(現在の新町9丁目)において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に 宇部興産 の工場に乱入、 守衛 を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて 民団 の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。 警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は 投石 などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは 催涙ガス弾 も導入してようやく鎮圧した。

40 After World War II 大村収容所事件(おおむらしゅうようじょじけん)the Omura Detention House Incident

大村収容所事件(おおむらしゅうようじょじけん) 朝鮮戦争による朝鮮人密航者や、在日朝鮮人で犯罪を犯した者を送還するために収容する 法務省 入国管理庁の 長崎県 大村市 にある 入国者収容所 (現: 大村入国管理センター )で、 1952年 (昭和27年)11月に発生した事件。 1952年 5月12日 、法務省は朝鮮人410人を 韓国 の 釜山 に強制送還した。 On May 12, 1952, the Ministry of Justice deported 410 Koreans to Busan, South Korea. 韓国政府は125人については引き取りを拒否した。 The Korean government refused to take out 125 people. 日本に送り返した。 The Korean government sent them back to Japan. これらの逆送還者は大村収容所に収容された。 逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに 民戦 が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。 事件の概要[ 編集 ] 1952年 11月11日 午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や 大村市警察 の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した。 裁判[ 編集 ] 長崎地方裁判所 は 1953年 7月20日 、被告15人中6人を無罪、残りの9人にそれぞれ懲役1年 - 5か月の有罪判決を言い渡した。 その他[ 編集 ] 『大村収容所二十年史』(法務省大村入国者収容所,1970)によれば、1950年12月から1970年9月末までに大村収容所で起きた事件は、騒擾事件34件、ハンスト22件、逃走事件35件70名、暴行事件49件、その他、脱棟、放火未遂、退去強制令書破棄、自損行為27件(自殺既遂4件、同未遂16件、自損7件)、嬰児遺棄、告訴等42件となっている。

38 After World War II 岡山事件(おかやまじけん)Okayama Incident

岡山事件 1952年4月24日~5月30日 阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン(催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。 5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。 11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。

37 After World War II 血のメーデー事件(ちのメーデーじけん)Blood May Day Incident

血のメーデー事件(ちのメーデーじけん) 1952年 ( 昭和 27年) 5月1日 (木曜日)に 東京 の 皇居外苑 で発生した、 デモ隊 と 警察部隊 とが衝突した 騒乱 事件である。事件は一部の 左翼団体 が 暴力革命 準備の実践の一環として行ったものと見られている [1] 。戦後の学生運動で初の死者を出した。 GHQ による 占領 が解除されて3日後の 1952年 (昭和27年)5月1日、第23回 メーデー となったこの日の中央メーデーは、 警察予備隊 についての「 再軍備 反対」とともに、「人民広場(注: 皇居前広場 )の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、 全学連 を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、 日比谷公園 で解散したデモ隊の一部は、その中の 全学連 と 左翼 系青年団体員に先導され、 朝鮮人 、 日雇い 労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた [2] 。 警視庁 は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して 雑踏警備 にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず 丸の内警察署 長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人( 駐留米国軍 人)の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の 催涙弾 を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先...

36 Afer World War II 田川事件(1952年4月19日)Tagawa Incident

田川事件(1952年4月19日) 1952年4月13日 福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グループと朝鮮人グループが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。国家地方警察田川地区警察署は両グループを検挙した。 ところが19日になって、朝鮮人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。警察は3名のアリバイを認め釈放したが、朝鮮人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向かって投石をし始め、ガラス戸27枚が破損、警察官7名が負傷した。 21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。

35 After World War II 多奈川町事件(たながわちょうじけん)Tanagawa Town Incident

多奈川町事件(たながわちょうじけん) 1952年 (昭和27年)3月に、 大阪府 泉南郡 多奈川町 (現 岬町 )で発生した事件。 以前より 多奈川町 警察は、隣接の 国家地方警察 泉南地区署の応援を得、幾度も 朝鮮人 による 密造酒 の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった。 1952年 3月24日 、 大阪国税局 は、同局泉佐野税務署・ 大阪地方検察庁 岸和田支部・ 国家地方警察 泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。 同年 3月26日 午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、 多奈川町 9ヶ所、 深日町 1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。 納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によって ドブロク ・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次 南海電気鉄道 多奈川線 多奈川駅 前に集合。 この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。 不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。 午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗...

33 After World War II 八坂神社事件 Yasaka Shrine Incident

八坂神社事件 1952年3月1日 三・一事件記念の名目で集まった約70名の朝鮮人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、朝鮮人側に十数名の負傷者を出して解散した。一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は近くの朝鮮人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行、解散させた。この事件で6名が検挙された。

28 After World War II 東成警察署催涙ガス投擲事件 Higashinaru police station tear gas throwing case

東成警察署催涙ガス投擲事件 1951年11月10日 泥酔中の朝鮮人を警察が保護したが、容態が急変して同日夜に死亡した。乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。 ところが、朝鮮人側は警察官の暴行により死亡したとデマを流し、約30名の朝鮮人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。

27 After World War II 福岡事件 Fukuoka incident

福岡事件 1951年11月21日  「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙された。その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。

22 After World War II 四日市事件(よっかいちじけん)Yokkaichi Incident

四日市事件 (よっかいちじけん) 四日市事件 (よっかいちじけん)は、 三重県 四日市市 で戦後発生した 在日朝鮮人 による 暴動 。 概要 1951年 (昭和26年) 1月23日 、旧 朝連 四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた 朝鮮人 約20名が、 器物 や ガラス の破片を投げつけたり、 灰 ・ 唐辛子 による目潰し攻撃をしたり、濃 硫酸 を浴びせて接収の妨害を行った 事件 。 そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。 警察 が出動して、 公務執行妨害 容疑で15名を 検挙 した。

19 After World War II 台東会館事件(たいとうかいかんじけん)Taitou Hall Incident

台東会館事件 (たいとうかいかんじけん) 台東会館事件 (たいとうかいかんじけん)とは、 1950年 (昭和25年) 3月10日 ・ 3月20日 に、 東京都 台東区 で発生した公安事件。 事件の発端 在日本朝鮮人連盟 は、結成以来 日本共産党 の尖兵として日本各地で 暴動 を起こし続けてきた が、 1949年 9月8日 、 団体等規正令 の「 暴力主義的団体 」として解散を命じられ、その 資産 は没収されることになった。 東京都 では、朝連台東支部があった「 台東会館 」を接収することになったが、旧朝連関係者は「台東会館は朝連の 財産 ではない」と異議申し立てを行ったため、東京都が 法務府 に問い合わせたところ、法務府当局は「台東会館は朝連の財産である」と裁定を下した。 法務府の判断を受け、東京都は朝連に対し台東会館を明け渡すよう通告したが、一向にその気配がなかったため、 1950年 3月10日 に接収を行うことになった。 事件の概要 1950年3月10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。 警視庁 では不測の事態に備えて多数の 警察官 を警戒に当たらせた。 係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。 そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。 旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口に バリケード を設け、周辺 道路 を巡回して警戒していた。 3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。 そのため 警察 は強行突入を断行し、朝鮮人119人を 検挙 した。

9 After World War II 首相官邸デモ事件(しゅしょうかんていデモじけん)Prime Minister's Office Demonstration Case

首相官邸デモ事件(しゅしょうかんていデモじけん) 1946年(昭和21年)12月20日に東京都麹町区(現・千代田区)で発生した在日朝鮮人による暴動である。 It is a riot by a Korean resident in Japan that occurred on December 20, 1946, in Koujimati Ward, Tokyo (now Chiyoda-ku). 1946年11月10日に、在日朝鮮人は在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成した。 On November 10, 1946, Koreans in Japan formed the Korean People's Right of Living Advocacy Committee. 朝鮮人に対する生活物資の優先配給を行政機関に要求していた。 Koreans had requested an administrative organization to prioritize the distribution of daily goods to Koreans. 同年12月20日に皇居前広場で「朝鮮人生活権擁護全国大会」を開催した。 On December 20 of the same year, the National Convention for the Protection of Korean Living Rights was held at the Imperial Palace square. 1946年(昭和21年)12月20日の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。 At the national convention on December 20, 1946, about 10,000 Koreans gathered. 日本共産党の徳田球一 も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。 The Japanese Communist Party Koichi Tokuda also attended, and after a speech by Tokuda Koichi, he adopted a resolution statement for the advocacy...

4 After World War II 富坂警察署襲撃事件(とみさかけいさつしょしゅうげきじけん)Tomisaka police station raid case

富坂警察署襲撃事件(とみさかけいさつしょしゅうげきじけん) 1946年 (昭和21年) 1月3日 に 東京都 小石川区 (現・ 文京区 )で発生した 暴動 事件である。 It is a riot incident that occurred on January 3 in 1946 in Koishikawa Ward (now Bunkyo Ward), Tokyo. 警視庁富坂警察署 は管内で発生していた連続 拳銃 強盗 事件の 容疑者 として 在日朝鮮人 3人を 逮捕 した。 The Tokyo Metropolitan Police Department Tomisaka police station arrested three Koreans as suspects of the consecutive handgun robberies. 1946年1月3日正午、春日町 交差点 において多くの不審者を乗せた トラック 2台が富坂警察署方面へ向かうのを、 交通整理 にあたっていた 警察官 が発見、直ちに署に連絡した。 At noon January 3, 1946, a police officer who was in charge of traffic control discovered that two trucks carrying a large number of suspicious persons headed toward the Tomisaka police station at the Kasugacho intersection, and immediately notified the station. 連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着した。 The truck arrives at the Tomisaka Police Station shortly after receiving the notification. 警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時 釈放 を要求した。 About 80 Koreans broke into the station and demanded the immediate release of ...